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同五十八年癸丑九月九日為下里與人
尚温王世代
乾隆六十年乙卯九月朔日黄八巻頂戴
嘉慶元年丙辰八月十七日勢頭座敷
添而為塩川與人
同二年丁巳八月五日座敷頂戴
同三年戊午八月十四日為與那覇與人
塩川與人之時
與那覇與人
右塩川村之儀、去申年以来飢饉打續、
(畠方も)
百姓至極疲入諸定納物年々及不納「畠方も」
荒地ニ相成候処、右者噯役被仰付罷渡、村
中之者共段々引勧男女追立相耕させ下知人
申付、毎日作場走廻為致差引候上、
仕上世所遣
両座之上納穀全相調候上、粟雑穀反布
取合、弐百弐拾四石餘未進上納之方江相調、
上納布も
乾隆五十八(一七九三)年癸丑九月九日、下
里与人となる。
尚温王世代
乾隆六十(一七九五)年乙卯九月朔日、黄八
巻を頂戴する。
嘉慶元(一七九六)年丙辰八月十七日、勢頭
座敷添と合わせて塩川与人となる。
嘉慶二(一七九七)年丁巳八月五日、座敷を
頂戴する。
嘉慶三(一七九八)年戊午八月十四日、與那
覇与人となる。
塩川与人之時
與那覇与人
塩川村は、去る申年以来、飢饉が続いており
百姓は非常に貧窮しているので、諸上納物も
毎年未納となり畑も荒地となっている。右の
與那覇与人は噯役に任じられ渡海し、村中の
者どもをいろいろと励まして男女をせき立て
て耕作させ下知人に命じて、毎日、耕作地を
走り回り指導した。さらに仕上世・所遣両座
の上納穀を全て準備した上に、粟・雑穀・反
布を合わせて二百二十四石余の未納も調達し、
上納布も