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同三十三年戊子五月十日為塩
  川村耕作筆者
同三十六年辛卯多良間嶌大波
  揚飢饉付而芋幷飢米為申請
  用宮古嶌罷登首尾能相勤帰嶌
同年白木棉布三端拝領之
 
 附、多良間嶋當春飢饉之砌、所持之牛三疋
   差出村中之者共江くれ、飢を救置候、
   為御褒美右通被成下候事、
同三十九年甲午定納布為宰領
 五端船ヨリ宮古嶌江罷登首尾
 能相勤帰嶌
 
同四十四年己亥御用物為宰領
 宮古嶋江罷登首尾能相勤帰嶌

乾隆三十三(一七六八)年戊子五月十日塩川
 村耕作筆者となる。
 乾隆三十六(一七七一)年辛卯多良間島に大
 波が揚がり飢饉となったので芋と飢米を受領
 するために宮古島に赴き首尾よく勤めて帰島
 した。
 乾隆三十六(一七七一)年白木棉布三端を拝
 領した。
 附けたり。多良間島が今年の春に飢饉とな  った際に、所持していた牛三頭を差し出し
  て村中の者どもへ与え、飢えを救った。そ
  の御褒美として右の品物を下賜された。
 乾隆三十九(一七六四)年甲午、定納布(上納布)
 の宰領として五端船で宮古島に赴き首尾よく
 勤めて帰島した。
 乾隆四十四(一七七九)年己亥、御用物の宰
 領として宮古島に赴き首尾よく勤めて帰島し
 た。
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