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- 現代語訳
一御当国之儀、
天孫氏被遊開国候得共、御政法亦者
礼式抔与申事茂然々無之、殊小国之
事ニ而何篇不自由罷在候處、其末之
御代より方々江致渡海、其働を以乍漸
国用筈合置候、然共於諸間切、諸按司
心次第城を相構各争威勢、年々兵乱
民
差起候故、上下万之憂勿論之事候、
右之時節唐より封王有之候付而、礼法
惣体之儀者先以相立候得共、国中
万事之儀付而ハ前代差而不相替、剰
兵乱万々より差起、国中之騒動言語
道断之仕合ニ候、其後漸々兵乱之儀者
相鎮候得共、右通之次第ニ付而御政法并風俗
迄
段々不宜儀為有之事候、然処御国許
之御下知相随候以後、国中万事
御当国(琉球国)は、天孫氏によって開国さ
れたが、御政法や礼式については整えられなか
った。特に、小国であることから色々と不自由
であったが、天孫氏の末の御代に方々へ渡航し、
その働きによってようやく国用を賄ってきた。
しかしながら諸間切の按司たちは思い思いに
城を構えて、それぞれが勢力を争い、年々兵乱
が起こった。そのため、上下万民の憂いは絶え
なかった。
このような時節に唐(明国)から王に冊封さ
れたため、礼法のおおよそは何とか形が付くよ
うになったものの、国中の万事については(冊封)
以前と差して変わりはなかった。とりわけ兵乱
が様々に勃発し、国中の騒動は言葉では表せな
いほどひどい有り様であった。
その後、次第に兵乱は鎮まるようになったが、
右のような次第であったため御政法や風俗は
色々と好ましくないままであった。
ところが、御国元(薩摩藩島津氏)の御下知(指
示)に従うようになって(1609 年)以来、国全
体は万事において思い通り叶うようになり