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元祖忠導姓仲宗根豊見親玄雅、二男跡目祭金豊見親玄教、
嫡子平良親雲上玄屯、嫡子西仲宗根與人玄保、嫡子平良親雲上
玄守、養子新里與人玄與嫡子島尻首里大屋子玄恒、嫡子
平良親雲上玄淑、嫡子狩俣首里大屋子玄易、多良間島
詰役之時生産
狩俣筑登之親雲上玄次
一 康熙四十三申年より、同四十九寅年迄七年、
塩川村耕作方下知勤日数六百六拾五日
同五十五申年より同五十八亥年迄四年塩川村
耕作方下知勤日数三百八拾日
乾隆八年癸亥二月十日、為杣山筆者
乾隆八年癸亥十月廿四日、黄八巻頂戴
一 乾隆八亥年杣山仕事之時、種々下知勤日数七日
合勤日数千五十二日
元祖は忠導姓仲宗根豊見親玄雅で、二男は跡目祭金豊見親玄数、
その嫡子は平良親雲上玄屯、その嫡子は西仲宗根與人玄保、
その嫡子は平良親雲上玄守、その養子に新里與人玄與、
その嫡子は島尻首里大屋子玄恒、その嫡子は平良親雲上玄淑、
その嫡子は狩俣首里大屋子玄易で、多良間島詰役の時に生まれた
狩俣筑登之親雲上玄次
一 康熙四十三年の申年から、同四十九年の寅年までの七年間は、塩川村の耕作方の指揮としての勤務日数は六六五日です。
康熙五十五年の申年から同五十八年の亥年までの四年間は、塩川村の耕作方の指揮としての勤務日数は三八〇日です。
乾隆八年癸亥二月十日に、杣山筆者になりました。
乾隆八年癸亥十月二十四日に、黄八巻を頂戴しました。
一 乾隆八年の亥年の杣山仕事の時、雑多な指揮としての勤務日数は七日です。
合計した勤務日数は一、〇五二日です。